2018-06-05 第196回国会 参議院 法務委員会 第14号
日本では、社会的に一人前であるというふうに考えられる労働能力とかあるいは戦闘能力ですね、これは伝統的にはもう少し若くて、おおむね十三歳から十五歳前後でいわゆる元服式とか成年式を迎えていたとされていたわけですけれども、成年年齢を二十歳と定めたこの太政官布告というのは、諸外国の例を参考に、諸外国では当時二十四歳から二十一歳ぐらいだったわけですが、その例を参考にして、日本でももう少し成熟した判断力を求めたというふうに
日本では、社会的に一人前であるというふうに考えられる労働能力とかあるいは戦闘能力ですね、これは伝統的にはもう少し若くて、おおむね十三歳から十五歳前後でいわゆる元服式とか成年式を迎えていたとされていたわけですけれども、成年年齢を二十歳と定めたこの太政官布告というのは、諸外国の例を参考に、諸外国では当時二十四歳から二十一歳ぐらいだったわけですが、その例を参考にして、日本でももう少し成熟した判断力を求めたというふうに
明治までの日本では、二十歳をもって成年とされていたのではなくて、元服や髪上げによって成人とされていました。これらは必ずしもある年齢を超えれば一律に行われたものではなかったようですが、元服や髪上げの基準はどうなっていたのか、またそれらにはどのような社会的意義があったのかについてお教え願います。
○山口和之君 太政官布告及び現行民法によって、元服や髪上げによる成人から成年年齢による成人へと移行したわけですが、そのことによってどのような社会的、経済的変化があったのかについてもお教え願いたいと思います。
○政府参考人(小野瀬厚君) 委員御指摘のとおり、元服の年齢につきましては、時代や身分階級によって異なっていたようでございます。江戸時代には、庶民階級では男子は十五歳で元服をし、幼年を脱して一人前の大人として扱われるようになったとのことでございますが、これと異なる地方の慣習の例も多数あったというふうに言われております。
例えば、昔は元服というのがある意味成人というふうなことを言われていましたけれども、元服は十五歳だと。これは、江戸時代、明治前までは十五歳でございました。それから二十になり、今回十八歳という形になります。 これだけ時代によっても異なりますし、社会情勢、当然、昔に比べて、昔は子供は労働力になっていた。農業をやっていく家においては労働力になっていた。
これは、昔の元服ですとか裳着にかわるものとして設けられたものでありまして、それらがかつて一月に行われることが多かったということから、当初は一月十五日と規定されたものでございます。
それまでは、慣習的に十五歳で元服という時代もありましたし、十五歳である意味成人だとみなしていた。それは、ある意味、欧米がまだ二十何歳とかいう時代に、我が国だけ逆に二十にがあんとはね上げた。その当時、いろいろな議論があったと思いますけれども、その時点で、身体的はともかくとして、社会的、精神的、そういった成熟が図られているというのは二十だという判断が下されたんだと思っております。
○山下参考人 私も明治時代に生きておりませんので、明治時代の若者がどうだったのかということについては必ずしもわかりませんが、先生がおっしゃるとおり、十五歳で元服という社会的な状況があった中で、二十歳という形で引き上げるというのは、むしろ日本は世界的に見ると年齢を低く設定していたというような時代だったというふうに承知しておりますので、明治時代の社会的成熟はそれなりに進んでいたんだろうというふうには推察
十五歳で元服ですよね、三割はまだ育つ時期、それから六割、三十年間働いて、残り一割、五年間が余生だったわけです。これは、私は、今の人生八十年時代もそうは変わらないと思っていまして、最初の三割、二十四歳までは育つ時代で、そこから六割、七十二歳まで働く、そして残りが一割、八年間は余生と、その割合というのは余り変わっていないと思うんです。
民法の成年年齢を二十歳と定められた理由や経緯は、百二十年近く前のことですので必ずしも詳細が分からないわけですけれども、制定当時の日本人の精神的な成熟度、これは江戸時代の元服の制度などが十五、六歳で行われたというようなこと、それから当時の欧米と比べたときの平均寿命が短いということなどを考慮して、明治時代にはほかの欧米諸国では二十一歳、二十二歳という辺りが成年年齢だったんですが、それよりも若干下げるという
また、維新の会の小沢鋭仁委員、西野弘一委員からは、元服はおおよそ十五歳であった、二十という年齢にこだわる必要はないのではないかという御意見も頂戴したところでございます。 ただ一方で、高橋参考人は、十六歳へと一気に下げることに現状とのギャップが発生するのではないかという考えのもと、現行の高校三年生の教育を受けた段階に合わせて十八歳にするのが妥当ではないかという指摘もされておられます。
我々の政党、維新の会では、小沢委員、西野委員からも、例えとして元服の年齢について指摘があったと思うんですけれども、十八歳と言わず、義務教育課程を修了した者には参政権を認めるといった考えも議論を今後されるべきではないかと思っておりますけれども、その点どのようにお考えですか。
続けて、投票年齢の引き下げの議論もありましたけれども、日本では、古来、特に武家ではそうですけれども、それぞれの家で、さまざまな年齢で元服を行ってきました。ちなみに、信長は十二歳、家康は十三歳、信玄は十五歳でありまして、二十という年齢にこだわる必要がないのかなというふうに思います。 また、政治に参画する権利と政治的に成熟して正しく判断する能力というものは、別に考えた方がいいと私は思っています。
それで、例えば歴史的に見ると、先ほど、地理的に見て百四十カ国が十八歳だ、こういう話を申し上げましたが、歴史的に見ても、我が国は、元服は大体十五くらいだったですよね、江戸時代。女性の方の髪上げというのもあるんですか、僕はよくわかりませんけれども、それは大体十二歳から十五歳。こういうふうなのが我が国の歴史のようなんですね。
ちょうど私が中学校に入って十五歳のとき、ある日おやじに呼ばれて、泰秀、おまえ、もう元服だ、江戸時代でいえば大人じゃないか、男同士で旅に出ようといって沖縄に引っ張られていきました。やったあ、沖縄。水着それからシュノーケル、そんなものをトランクに突っ込んで、泳ごう泳ごうという一心で飛行場の那覇空港に着いたら、タクシーに乗ったおやじが一番最初に言った言葉が、運転手さん、摩文仁の丘に行ってくれ。
昔は十五歳で元服をして社会人として生きるという一つのあれがあったわけで、「十有五にして学に志す」と言いますけれども、大体十五歳ぐらい、義務教育終了のときぐらいまでに、自分はどういう特色を持ち、どういう個性があり、社会というのはどういうもので、その中で自分はどういう地位を占め、どういう貢献をするかということを、かなり具体的にそういう志としてつくっていくということが大変大事なポイントだと思うんですね。
第二次大戦、一九四五年の八月十五日に終わって、恐らく十四日ごろだったと思いますけれども、私も中学校一年生になったときに、父親に、おまえも十五歳になって昔なら元服だ、沖縄に旅行、男同士で行こうといって連れていかれました。沖縄に行って、摩文仁の丘に飛行場からそのまま直行させていただいて、大田中将がここでピストル自殺を図ったんだという海軍濠を見せていただきました。
○参考人(工藤啓君) 社会的な背景としましては、昔元服というのがあって、十代ぐらいで人は成人としてみなされたと思うんですけれども、昭和二十三年に法律が発布されて成人式が二十歳になりました。そのときの平均寿命って大体六十ぐらい。それから、社会が豊かになって、平均寿命が八十になって、いまだに成人式は二十歳で、だれも大人は二十歳の若者を成人だと思って扱っていません、テレビを見れば分かるとおり。
そういう中で、十五歳ぐらいになりますと、昔であれば元服ですから少し大人になるわけですが、そのときに高校というものを見据えるということは、学校としては、例えば生活指導上の一つの柱にもなりますし、そこで生徒の生活習慣が一本筋が通るというようなこともあります。
私もそういうところへ出まして、昔の元服だからもう一人前になったんだよなんていうあいさつをしたこともございます。そういう中で、しかし一方ではまだ中学二年生でございますから、過保護と言ってしまえば過保護かもわかりませんけれども、やはり精神的に未熟な面もあろうかと思います。また、感受性も高くてちょっと傷つきやすい点もあろうかと思います。
もう侍は十五歳で元服して腹もかっ切ったんですから、数えで十五というのは十四ですか。ですから、まあそういう議論は別にして、十四歳から、中学二年生ですか、処罰していいと私はそもそも思っておりました。だから、私個人としてはこの低年化することに対して何のためらいもありませんでした。
どなたか、元服はかつては武士は十五歳だ、数えの十五歳ですから、満にしますと十三歳ですか、元服をして、場合によれば切腹もさせられたという時代もあったわけなんですが、十二歳にすると、小学校六年生で十二歳になる子もいるから、十二歳にするのはいかがかと思いますが、十二歳か十三歳か、もうそろそろ下げることを検討してもいいのじゃなかろうか。
かつまた、我が国の伝統、つまり元服等々の伝統、それから見て何ら整合性を欠くものではなくて、むしろ我が国の伝統に従うというふうに私は思っております。これは昨日お聞きいたしましたので、御答弁は結構でございます。
昔は元服という儀式があって、あれも今で言う十五歳ですよね、これは。だけれども、何で十五歳でないのかというと、まさに十五歳ではまだ中学二年生であって、十四歳もいるわけですから、中学三年終わるのはやはり十六歳にならなきゃいけないので、私は、この義務教育の関係とやはり少年法の二十条との関係というのは大いに関係があると思うのですよ。
○瀬谷英行君 赤穂浪士だって元服前の連中は討ち入りに参加させなかったですね。参加をすれば切腹ということも考えおきゃいけないだろう、それには年少者を道連れにしちゃかわいそうだ、こういう配慮があっただろうという気がするんです、これは赤穂浪士の時代の話ですけれども。そういう精神が逆に悪事の防波堤になるということになると、これはゆゆしいことだと思うんです。
江戸時代の元服が十五歳であったのかもしれません。しかし、その当時の十四歳と今の十四歳では、医学的にも情報収集においてもはるかに違う。ここら辺をお考えになって、十四歳は十二歳、小学校、こういう形での年齢をお考えになる、このことは大事だと思っております。 それから、教護院とか少年院。日本は、そこに働く人たちは世界一優秀だと、僕は経験者だから褒めるわけじゃなしに思っております。
昔は数えですから、十四歳とか十五歳、歴史小説を読みますと、大体十四歳ぐらいが元服なんです。毛利元就も次男でおくれたといって十五歳で元服です。私は曹洞宗の檀家なんですが、道元さんが十四歳で得度しているとか、大体そのころに大人として扱ってきたんです。アメリカでも十二歳というのにこだわっているわけです。